曇りなきものを見たい
学校の教室からよく外を見ていた。働き始めてからも、オフィスからよく外を見ていた。高いビルのオフィスに行くと必ず景色の写真を撮る。全て窓ガラス越しなのだけれど、はっきりと風景として見ることができる。ガラスがきれいであることは普通のことだと思うかもしれないが、もちろん勝手にきれいになるわけではない。誰かがきれいに掃除をしてくれているのだ。 そこで登場するのが、ガラスクリーニングだ。
街を歩いているとビルの外側に業者さんが宙づりになって手際よく掃除しているのを目にする。今回はこのバイトをしてみたいと思う。 話が変わるが、私の部屋は汚い。汚いからこそ、外の景色だけは常に美しく眺められるようにしたい。なのでガラスの汚れにはうるさい。曇りなきこの眼で、曇りなきガラス越しに、曇りなき景色を見ていないと心まで汚いおじさんになってしまう。
そのためガラスクリーニングに興味があった。 カッコいいな、と思っていた。窓ガラスを何かで濡らして、その水をワイパーみたいな道具できれいに除去する感じ。これをやりたい、と思い調べてみるとバイトを募集していた。ぜひやってみたいと思う。あのテクニックを学び、きれいなおじさんでいたいのだ。
かっぱぎチャンピオン
今回バイトをするのは「SFビルメンテナンス株式会社」。オフィスビルなどのガラスクリーニングをしている会社だ。なぜこの会社でバイトをするかというと、「日本ガラスクリーニング選手権」のチャンピオンがいるからだ。
「日本ガラスクリーニング選手権」は2年毎に開催され、全国のガラスクリーニングの猛者たちが集結する。最近開催された2018年度大会で見事優勝に輝いた、菅原さん直々に今回教えてもらえるのだ。
この日のバイトは朝8時に都内のビル集合で始まった。つなぎを着て、窓ガラス掃除に必要なものを支給される。
シャンプーとスクイジーとウエスの3つだ。シャンプーで窓ガラスを擦り濡らして、スクイジーでその水を「かっぱぎ」って、ウエスで枠を拭く。
専門用語のような言葉がたくさん出てきた。私も初めて聞いた。シャンプーは洗剤のついたモップのことで、スクイジーはワイパーみたいなもの。ポイントはそれで水を除去することを「かっぱぐ」と言うとのこと。知らない言葉だ。ウエスは拭くための布だ。
この一見シンプルで簡単そうな作業がめちゃくちゃ難しい。水を「かっぱぎ残す」と乾いたときには汚れとなってしまう。汚れが残るとビルからのクレームとなる。ただ時間をかけ過ぎるとすごい数の窓ガラスがあるので終わらない。 そう一番大事なのは手際なのだ。「日本ガラスクリーニング選手権」、別名「かっぱぎ選手権」のチャンピオン菅原さんの手際を見てほしい。もはや芸術だ。
私がやると、「かっぱぎ残し」がとにかく起こる。甘く見ていた。見ている分には簡単そうな気がしていたけれど、そうではない。めちゃくちゃ難しい。なんと言えばいいのだろか、頭では理解していても、体が動かないのだ。 台形を描くようにスクイジーを動かすのだけれど、全然できない。また最後に右側に水を残すことを「オールドスタイル」を言っていたけれど、ニュースタイルも知らないので、脳内で情報が渋滞していた。 とにかく超一流ダンサーのそれをほうふつとさせる動きだ。やはりかっぱぎチャンピオンはただ者でない。チャンピオン曰く「特に初心者は手首が固いので、柔らかくすることが大切」とのこと。
窓ガラスのクリーニングは、早く始めれば始めるほどテクニックが身に付くのだそう。職人の世界に近い。 業界内では、会社が違えど「あいつはすごい」と名前が広がることもある。
まだまだ「かっぱぎ残し」だらけだ。ウエスでそれを拭いていると時間がかかる。うまい人は1日で200㎡の窓ガラスを拭くそうだ。もちろんそこにはビル内での移動もあるし、ビルからビルの移動もある。200㎡という数字は初心者にとっては途方もない数字だ。
ビルの外側の窓ガラスは「ブランコ」というロープで自分を吊るして行う。2年ほど前からブランコには資格が必要となり、それがなければすることができない。ちなみにブランコを始めるとバイトの時給はアップする。資格は時給に反映されるのだ。 取ろうかな。
見守りも仕事
日によるけれど、この日は2つのビルを8時から17時までに回る。日によっては6つのビルを担当することもあるそう。働く人に話を聞けば、日給もいいし、怒られたこともないし、満足できる職場と言っていた。チャンピオンの菅原さんも16年この会社で働いている。
手が届かないところや、ブランコではできないところは、専用のポールを使って行う。このポールめちゃくちゃ重い。さらに長くて全然思うように動かない。これでシャンプー、スクイジー、ウエス、といつも通り行う。
平場の窓ガラス掃除も下手だし、ブランコは資格がないし、ポールは重いしで、初心者の私にはできることが少ない。そういう時は警備の仕事になる。ブランコの時に上から水が垂れるのを通行人に当たらないようにしたり、はしごを押さえたりする、それも仕事だ。
オフィス内の窓ガラスも下にタオルを引いてシャンプーから水が垂れないように、仕事の邪魔にならないように迅速に行う。新人だけどできることはあるのだ。
気軽な始まり
オフィスで働く人が疲れてふと外を見る時、曇りなき景色を見られるのは、この窓ガラスクリーニングのおかげ。窓をきれいにすることで、誰かのちょっとした癒しになるかもしれない。そんなことを想像しながら一生懸命窓を拭く。
数人で手分けして行うので、ブランコへと何人かは向かい、私は地に足がつく場所での清掃を開始する。シャンプーを濡らすのは、バケツに入れられた水と洗剤なのだけれど、洗剤の量は季節や天気によって微妙に変えている。長年の経験に基づき、狙った汚れを逃さない。職人である。 ただ窓を拭くだけでなく、かなり奥が深いのだ。私が持っている道具はスタンダードなもので、シャンプーとスクイジーが一体になったものもある。上級者になると自分に合った道具を選ぶそうだ。私はまだその域に当然達してないけど。
慣れることによって人は成長する。格段に朝よりも作業が早くなり自分の成長を実感できた。おじさんでも成長できるのだ。 でもまだまだ序の口。慣れてはきたけれど、形になるのは1カ月かかり、期待のエースになるには1年ほどかかる。 始めるのは早い方がいいとのことなので、学生のバイトには持ってこいなのかもしれない。早くから始めれば、チャンピオンになることも夢ではないのだ。
チャンピオンの菅原さんも最初はバイトから始めた。動機も「家から一番近い会社だったから」とのこと。窓ガラスの清掃に興味があったわけでもないらしい。それなのに今やチャンピオン。他の人も求人サイトでたまたま見て、みたいな人ばかり。 でも、みんなうまいのだ。
筋がいいとチャンピオンに褒めてもらった。スクイジーは手首のスナップを効かせる。握るのではなく、添えるように持ちながら手首をしなやかに動かし、台形を描くようにかっぱぐのだ。20代前半にやっていたら、私がチャンピオンになっていたかもしれない。現状ではチャンピオンとは手際の良さが同じ人間とは思えないほど違うけれど。
チャンピオンは1枚のガラスを5秒もあればきれいにするけれど、私は20秒かかる。4倍時間がかかるのだ。
心地よい疲れだ。中腰になったり、脚立を昇ったりもするので、疲れないと言えば嘘になるけれど、心地よいのだ。曇りなきガラスが自分の手によって誕生するのはうれしいし、だんだんと自分がうまくなっているのを実感できることは心地が良い。
チャンピオンと比べると断然遅いけれど満足。素人よりはうまいのではないだろうか。毎回うまく行くと満足感がすごくて、満たされた気持ちになっていた。曇りなきガラスを作り出すことで自分の心の曇りが消えていく。
ガラスきれいにしようぜ!
ということで、朝から夕方まで窓ガラスをきれいにした。働いている人は職人である。そこには遠く及ばないけれど、確かな達成感と満足感があった。ブランコもやってみたい。日給もアップするそうだし、そこまで難しくないそうなので、資格を取って、次はブランコもやってみたいと思う。 でも、まずは自分の身近なものからきれいにしたい。 そう、メガネとかね
著者:地主恵亮
基本的には運だけで生きているが取材日はだいたい雨になる。
2014年より東京農業大学非常勤講師。
著書に「妄想彼女」(鉄人社)、「昔のグルメガイドで東京おのぼり観光」(アスペクト)がある。
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編集:はてな編集部